久しぶりに黒川温泉#59127;に入りました。

といっても、温泉入浴剤の「日本の名湯・至福の贅沢」



芳しく甘い、若葉も感じさせるよい香りがして

「こころくつろぐ」という名のとおり「ほっこり気分」に

美人の湯系の「まろやかで心地よい、にごり湯」でした。

 

 実は、20数年前に「黒川荘」へ宿泊しようと旅行代理店に申し込みをしたことがありました。でも、当時の黒川荘には「内湯」がなく「露天風呂」のみだったので断念し、博多駅から「特急・ゆふいんの森」号に乗って、由布院へ泊まる旅プラン#59127;へと変更したのでした。

 

黒川温泉郷へは、日帰りで一度だけ足を運んだことがあります。

その時の入湯手形は、処分して手元に残っていませんが

手形と一緒にもらった温泉巡りに便利な巾着袋は、まだ現役です。



(巾着袋の裏地にはビニールが貼ってあり、とってもすぐれもの#59130;)

  杉材で作られた入湯手形は、一枚で3ヶ所の温泉に入れるというものだったのですが、「黒川荘」の他に入った2つの温泉宿の名前が?・・・どちらも川沿いにあったことしか思い出せないのです。 印象に残っていることは、福岡市内から日帰りで、一日に3湯の温泉をはしごして、数日後に湯あたりの兆候が出てしまったことと、豆腐屋さんのアイスクリームを食べて美味しかったことなどで・・・。

 

 ところで、わたしが「黒川温泉#59127;」のある肥後(くまもと)と豊後(おおいた)のあいだに温泉にまつわる物語があると知ったのが、つい数年前のことです。市内の「東津留(旧町名:中津留)」という地区へ出かけることがあって、目的地の手前で、たまたま通りがかった場所の奥まったところに「?!」と感じたお堂がありました。なぜだか、とても気になるお堂だったため、後日調べてみたら「身代わり地蔵さま」をお祀りしているということ。

 

【その身代わり地蔵さまのお話「甚吉物語」は】

 江戸の昔、信心深い少年(甚吉)は、病弱な母とふたりで暮らしていました。

甚吉が塩売りをして生活をする貧しい暮らし向きでは、母の好物の瓜を買えず、悪いことと知りながら、甚吉は畑から瓜を盗むようになってしまいました。

 ある晩のこと、度重なる盗みに立腹した地主(武士)は、物陰にかくれ、甚吉を一刀のもと斬り捨ててしまいました。ところが、甚吉が日参し、ひとつまみの塩をお供えしていたお地蔵さまが、身代わりとなり頭部を切られ、甚吉が、命を落とすことはなかったのでした。

 そののち、そのお地蔵さまの頭は、肥後藩の修験者が持ち去ってしまったというのですが、道中の南小国で急に重くなったので安置したところ、そこに温泉がわき、『黒川温泉』が誕生したということです。


 

 頭と胴体とが離れ離れになっている、お地蔵さまの前編(豊後)・後編(肥後)にわたる不思議な昔話。

 黒川温泉の地蔵堂の前は、3湯の湯めぐりが終わった後、アイスクリームを食べに行く途中に通って、外からのぞいただけでした。(このようないわれがあったとはつゆ知らず・・・。)そして、最近になって、このお堂に入湯手形を奉納するようになっているようです。

 『黒川温泉』の公式サイトでは、甚吉の物語が少し違っていました。「母親」が「父親」だったり、肥後の本田勝十太郎という修行者が、国元で祀ろうと持ち帰ったら、お地蔵さまが「ここに安置してくれ」とお声をかけてきたというのです。

 地元誌(大分市津留)では『身代わり地蔵として有名になったあと、街道を通りがかった肥後の修験者が、お地蔵さまの噂を聞きつけ、頭部を盗み出し、小国まで行ったところで、急に重くなって運べなくなり、打ち捨てて去った。里人がその首を祀ったところ、温泉が湧きだした』というものでした。

 どうやら、お地蔵さまの頭部は許可もなく、持っていかれた(盗まれた)というほうが、話の筋が通っているように思えます。お地蔵さまも、瓜泥棒の甚吉は助けたけれど、同じ泥棒でも自分の頭を盗まれたのでは、頭だけに「アタマ」に来たんでしょうか・・・(?)。ともかく、寒村に温泉が湧き、山間の村人が幸せになったというお話で、めでたしめでたしです。

 

豊後(おおいた)から肥後(くまもと)へと続いた温泉ものがたり

 

「甚吉物語」が彫塑になって公園にあります。⇒大分市/屋外彫刻写真(中部エリア)(「甚吉」の像)

 ひょっとしたら、偶然地蔵堂の前を通りかかったときに、お地蔵さまが「これ、黒川温泉に行ったあなた~!」と、存在を知ってほしくて呼びかけたのかも??

 

 いつの日か、黒川温泉へ再訪したときは、地蔵堂に立ち寄ってみたいと思っています。そして、元湯という「地蔵湯」にも入ってみたいな・・・。